一日だけの、、。

約ひと月前に友人からお声掛けを頂き、岩手へ瓦礫撤去に行く事になりました。
世話人の方より現地で必要な物や道具を教えて頂き、自分の持っている道具を詰め込み、7/1日の(金)22:30に15人編成で車4台(トラック含む)で川崎を出発しました。

7/2(土)7:30遠野市総合福祉センターに到着、「遠野まごころネット」という団体の活動に参加させて頂きました。
行先は釜石、以前日本中を旅していた時に釜石を走っていました。
二十五年前の釜石の印象は色んな所から金属音や蒸気が出ている所だなーって印象でした。
その当時を思い出しつつ朝食をコンビニで済ませ、いざ現地に向かいました。

一時間程走り、釜石駅を過ぎて川を渡ると景色が変わります。
電気の来ていない信号機(信号は新しくなっていました)に壊れたシャッター。
でも瓦礫などは少なくなっていて、この3カ月で随分と片付けられた事が見て取れました。

すぐに駐車場に案内され、作業をさせて頂く施主さんに皆で挨拶。
我々も被災者である施主さんも緊張していて、何とも言えない空気が流れました。
作業内容を聞いて早速作業に入ります。
床板をはがし、下地・断熱材も取り払い、そして床下に入り込んだヘ汚泥をかき出す。
グラスウールの断熱材や泥にはにはまだ海水が残っており、3ケ月たった今でも相当な湿気を放っていました。この後に床下を乾燥させて新たに床を組むまでの時間を考えると、まだまだ始まったばかりなんだと思っていました、、この時点では。

15:00頃には全体の作業(家の周り庭や樹木の片付け)も終了し、施主さんにも確認して頂いて最後は
施主さんを含めて写真を撮って現地を出発しました。

作業が終わったのでもっと海の近くまで行ってみようと思い、釜石港に車を向けました。
100mも走らないうちに町の姿が、、

??えっ??ここは何処??あれ??
さっきまで作業をしていた所と違いすぎる!!半日を過ごした家は一階部分が水没したお宅でしたが、ちょっと下っただけで二階部分・三階部分までガラスが割れ瓦礫は積み上げられたままです。
木造の家は跡かたも無く、鉄骨造も骨組みのみ残っている。

※写真は釜石港北側です。
被災者の方々に申し訳なくて、街中の写真は取れませんでした。
下の写真の場所なら良いかって事ではないのですが、住民がいらっしゃらない所でないと写す気になれなかったのが本音です。
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これはとんでもない!始まってもいない!数えきれない方々の作業でここまで(道路を車が通れる)の状態にまでなっているけれども、残っている建物をどうするか?瓦礫を何処に運ぶのか?船はどうするんだ!
頭の中はどうする?どうする?ってぐるぐる回ってしまって倒れそうになるぐらいです。
圧倒的に足りていない解体プロの職人や重機類。

朝に頂いたボランティア作業者の認識シールに目を向けます。
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明日に進もう ! ! いわて

ぼくらは作業一日で残念ながら次の日には帰ってしまいます。
でもまた来て進む作業を手伝おう!今度は材料を積んでやってきて、プロとして出来る事をさせて頂こう。
そしてこれから出来るだけ多くの人に現状を伝えよう。

その晩に1ケ月前から現地で作業をしている方とお話させて頂きました。
「たった一日で帰ってしまいますが、今度来るときには何が必要でしょうか?どうすれば良いですか?」
疲れ(この時点で40時間寝ていません)も手伝ってか、その方に食い下がって質問していました。

その方は静かに「分かりません、状況は毎日変わってきています。こちらに連絡をして確認をしてから来て下さい、気持はみんな一緒ですから。」
独り善がりな事を言ってしまい、恥ずかしくなり話を変えました

翌朝7:00過ぎには出発です。
大船渡と陸前高田を回ってから帰ろうと昨夜に話していたので、大船渡へ
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大船渡も壊滅的な被害が出ていました。
そして陸前高田
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陸前高田は瓦礫の撤去が進んでいましたが、広大な範囲に被害が有ったことがよく分かります。
大きな建物以外は何も無くなっていて造成地のように見えます。
地盤沈下によって海水が陸地に入り込んでいます。

津波地震被害のあまりの大きさに、呻くしか出来ません。

何とか、何とか力になれれば、、、。

また行きます!